二本松城 (霞ヶ城) 1 「福島県 二本松市」 [福島県]
それでは悲劇の城 二本松城へ いざ!
和菓子の店 日夏の左の道をしばらく行くと
通称 坂下門
初代藩主 丹羽光重が二本松に入府した際 大手門を造りたかったらしいのですが
財政難の為 実現出来ず
やっと9代目藩主 丹羽長富の時に完成したそうです
さぁ~て ここからは きっつ~い登り坂 (汗汗汗”””
そしてナント 登った分だけ一旦下り
(あ! 下った所に セブンイレブンがあります 小休止しました)
家と家の合間に見えてきました!
ココまで来るのに・・・息切れ ○o。.
二本松城
古くは応永21年 (1414年) に 畠山満泰が山城を築いたのが始まりだとか
畠山家
畠山義継の代に伊達政宗の父親 伊達輝宗を拉致
これを 伊達政宗が父親もろとも畠山義継と共に鉄砲で射殺してしまう
という 粟ノ巣の変の話が有名ですね
その後 伊達政宗の猛攻に耐え切れず 二本松城は落城
そして畠山義継の子 義綱は会津の葦名氏を頼りましたが
その葦名氏も伊達政宗に攻められ 実家の佐竹家に逃亡しますが
その途中に足手まといになるとされ 殺害されたとか
葦名氏も 畠山氏も滅亡してしまったそうな
なんとも 悲劇の城みたいです
さて やっと 三の丸高石垣の前に到着しました (疲”
ここまで 徒歩で20分弱 (息切れ 収まりません ○o。.)
二本松少年隊群像
↑ 平成8年に 寄付金により製作 ↑
箕輪門の前
箕輪門
× (バッテンマーク) は 進入禁止の意味ではありません
丹羽家の家紋です
合戦のあとで 血の付いた刀を袖で拭ったら
バッテンの様に血糊が付いていたので 豊臣秀吉から
「これを家紋としたが良かろう」
との言葉により この紋に定められた
も一つは
丹羽長秀の馬印 (大将の馬印) が 戦のあと短尺が散り
そして2枚だけが残り バッテン状に残っていたので
それが家紋になった
とか
それにしても石垣&松 立派なのであります \(^o^)/
戊辰戦争の際にここで
丹羽一学 服部久左衛門 丹羽新十郎の3人の藩士が自刃したそうです
ん? 掘り切り ???
城内の連絡通路でした
長いブログになってしまいましたが
次は いよいよ本丸で御座います (^O^)/